BIKKYアトリエ3モア-2
当時、音威子府村は国鉄の路線が交錯する要衝として栄えており、村民の大半が国鉄関係者という土地柄だった。ビッキ氏を囲んで盛り上げていったのも、若い年代の国鉄職員だったとか。ごたごたしていた村を彼が求心力となってまとめていったのだ。
しかし、ビッキ氏もこの音威子府という土地に助けられたことは間違いない。この地に住むまで、ビッキ氏は札幌で制作活動を行っていたのだが、数年間なかなか会心の作品を生み出すことができなかった。自然物と人間との境目を感じさせる「自然」という言葉の意味がわからないと言うほど自分は自然の一部であると信じていた彼にとって、この緑豊かな土地がどれほど居心地よかったことか。移住して亡くなるまでの約12年間で1000点以上もの作品を作り上げたことからも、そのことは伺えよう。
ビッキ氏が亡くなったのは1989年。数年間の検討の後、村は、ビッキ氏のアトリエをミュージアムにすることを決める。この設立に携わった音威子府村経済課の宗原均(むねはらひとし)さんは、砂澤ビッキという人物は 村の資源だと語る。彼の生み出した作品、思想をどのように生かしていくのか。それを最大限に表現したのが、アトリエ3モアなのだ。当初、場所が不便だからと、駅前などに移築する案も出たが、アーティストが暮らしていた場所を大事にするべきだと筬島小学校が建っていたその場所で改装することに決定。背後にある北大演習林含め、自然と共に生きたビッキらしさを出し、エコミュージアムと銘打つことになった。
ビッキ氏は村から校舎を借りて活用していたが、現在はミュージアムが独自の活動を行いやすいように独立した委員会を設立し、独立採算制に。
現状を見てくると、生前のビッキ氏の求心力そのままに現ミュージアムに人が集まってきているような気がしてくる。河上さんも宗原さんも、ビッキ氏はこの土地のステイタス、村民の心の支えになっているという。そんな彼の思想を形にした文化的な施設が村にあるというのは、人口千人未満の小さな小さな村にとってどれほど重要なことか。そもそも学校という場所は、かつて集落の中で文化の象徴として最も力を入れて建てられたもの。そこを自慢に思う気持ちが地元を誇りに思う気持ちに直結していたといっても過言ではないだろう。筬島小学校は学校としての役割を終えてなお、 ビッキ氏の力を借りて本来の役目を果たしているのだ。ーおしまいー(「スロウ vol.29」2011年秋号掲載)
■BIKKYアトリエ3モア-1
■BIKKYアトリエ3モア-2