弥生の里農園-3
吉岡さんの畑を訪れたのは、夏の暑い盛りのこと。稚内方面からオロロンラインを下り、名寄市に入った日も気温は35度近くまで上がり、路面には蜃気楼が見えるほどの暑さを記録。翌朝、天塩弥生駅近くにある吉岡さんの農園、「弥生の里」を目指すが、緑濃い郊外に向かっても、いっこうに暑さが弱まることはなかった。
春は桜の名所として知られる弥生公園の隣。こんもりと樹木の茂る小高い山を背後に広がる弥生の里。吉岡さんが野菜を育てている農園だ。どこまでものんびりとした、こぢんまりと区分けされた畑の様子は、まるで東北地方の農村風景を思わせる。作業用つなぎに身を包み、日よけ帽子をかぶった吉岡さんは、予想に反して(?)とても健康的で、涼しげな笑顔を見せてくれた。「この春は気温がとても低かったから。そのせいか、生育が思わしくなくて」。それでも、粘土質の少し乾いた畑には、想像以上にたくさんの野菜が育っていた。
道北の夏は目眩がしそうなほど目映く、それでいてとてつもない厳しさを内包している。訪れるたび、例外なくそんな風に思うのには訳がある。人と自然との関係性が、どこまでも直接的だからだ。それは近代以前の人と自然の在り方そのままのようでもあり、そこでは人はむき出しの自然に身をゆだねることでしか、生きる術を見い出せなかったことだろう。この道北の土地柄が語る言葉に耳を傾けてみたくなるのは、決まってこんなときだ。
「古代の良さを伝えたい」。吉岡さんは礼文島で育ったことを話してくれたすぐその後、そんな言葉を添えてくれた。厳しい自然を生き抜いてきた古代の人々のしなやかな思考、野性味を帯びたたくましさなどをイメージしてのことだろうか。古代から続いているはずのこの道北の土を耕しながら生きること。吉岡さんは自らの人生をより良く生きるためにも、この道を選んだのだろう。
弥生の里がある弥生地区近くには、かつて旧国鉄の深名線が引かれていた。深川から朱鞠内、名寄へと向かう線路をわずか4年で引いたというが、そこには隣国からの強制労働者の存在があった。今も彼らが住んでいた場所に墓跡が残っているらしく、地域の人たちが線香を手向けるなどしながら弔い続けているという。「この地域のそんなマイナスの歴史も含め、学びながら向き合っていきたい」。名寄に戻ってきてから、より一層自分が育ってきた地域に向かうようになってきたという吉岡さんの意識。ただ畑をやっている農家というだけでなく、この地域の歴史などにも目を向けながら生きていくことが、自分のより良い人生のためにも必要だと感じている。
「自分でもやりたいとしたら、食べることでより元気になるような、子どもに食べさせたくなるような作物を作る農業」。まだ雪の積もっていた冬のあの日、吉岡さんは目指す農業の中身について、こんな言葉で説明してくれた。「疲れてても元気になるような」とも話していたし、「自分で作って、自分で食べられる作物」、「人に、これおいしいよー」と自慢できるような農業が理想なのだと。ーつづくー(取材・文/萬年とみ子 撮影/高原 淳)