暮らしと珈琲 みちみち種や-1
窓から差し込む光、ギターの音色が流れる部屋、哲平さんが淹れる珈琲の香り、裕子さんがおすすめしてくれたお菓子の味と、時々顔を見せてくれた愛嬌たっぷりの猫たち。食卓テーブルに腰かけて、掛け合いのような2人のやり取りに耳を傾けた時間。「どこかで、何かの、誰かの役に立ちたい」。シンプルで、真っ直ぐで、優しいいたわりに満ちた2人の言葉。胸の中に小さなろうそくの火がポッと灯ったような、何とも言えない幸福感に満たされていく。
自家焙煎珈琲豆を販売する「暮らしと珈琲みちみち種や」は、2014年3月10日に石狩市にオープンした。店を営むのは、共に宮城県出身の加藤哲平さんと、た・ゆ・う・さんこと妻の裕子さん。「3・11(東日本大震災)の前に戻りたいという気持ちがあったんです。戻ってこないものはたくさんあるけれど、一旦戻って新しい一歩を踏み出していこうって、前向きに気持ちを切り替える意味で」。一つひとつ言葉を確認するように、哲平さんがゆっくり口を開く。日常が一瞬にして変わってしまう体験をした2人が自らの生き方を考えて選んだ道は、2人流の、ふるさと復興のための道でもあった。
「食」という分野こそ、2人に共通する原体験
仙台市内に住んでいた頃から、いずれは何か店をやりたいと話していた2人。ただ、店のコンセプトや商売の「柱」となるものが見つからなかった。「カメラや音楽が好きだったんですけど、好きなものを集めただけで店になるのかなって」。漠然と想像はするけれど、いまいち現実味のないふわふわとした夢。しかしそこに珈琲豆という新たな要素が加わることで、その夢はしっかりとした形を結んでいくこととなる。
振り返ってみると、哲平さんは自然食品の店を営む両親の背中を見てきたし、自他共に認める「おばあちゃん子」の裕子さんは、祖母の傍で命に感謝することの大切さや、手間暇かけて手作りした料理のおいしさを身に染み込ませて育った。もしかすると「食」という分野こそ、2人に共通する原体験とも言うべきものだったのではないだろうか。
たった1杯の珈琲がこんなにも心をほぐしてくれる
今ではちょっと考えられないことだが、「実は、珈琲が飲めなかったんです」と哲平さんは苦笑する。そんな哲平さんをたちまち珈琲好きに変えてしまったのは、たった1杯の珈琲との出逢いだった。およそ10年前、27歳のときのことだ。
当時、闘病生活を送る父を仕事帰りに見舞うのが哲平さんの日課だった。家族のこと、そして仕事の上でも悩みは尽きなかった。少しでも気分転換したいと病院と自宅の間にあった喫茶店に立ち寄っては「味はわからないけれど何となく」珈琲を飲んでいたという。
ある日のこと、いつもの店に立ち寄ってカウンターに座ったまでは良かったが、注文するのも忘れてぼうっとしていた。「その日はものすごく疲れていて…」。すると1杯の珈琲が目の前に差し出された。店のマスターが何も言わず、用意してくれたのだ。「おいしかったんです」。その時の心の動きを思い出してか、哲平さんの表情がふわっと和らぐ。「マスターの心遣いがうれしかったし、たった1杯の珈琲がこんなにも心をほぐしてくれることに感動しました」。好きな物、描いていた夢。そこに通す1本の軸はこれ以外に考えられない。「珈琲があって、そこに人が集まって来るような場所を作ろう」。裕子さんとも相談し、目指す先へと一歩を踏み出していく。-つづく-(取材・文/家入明日美 撮影/高原 淳 取材日/2017年10月19日)
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