2021 Mar
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増毛山道トレッキング-2

先人の軌跡を辿る旅

増毛山道ができたそもそもの起源は、樺太を境に日本とロシアが漁業権を争っていた最中の北方警備にある。水や食糧を求めて南下してくるロシアの侵略を防ぐために、当時、増毛場所の請負人だった伊達林右衛門氏が江戸幕府に命じられ、山道を切り拓いた。その際、幕府から資金が送られてくることはなく、当時のお金で1310両(現在の約1億7030万円)の自費を注ぎ込んで工事にあたった。『北海道道路史』には、秋田県から山道開削経験者35人を呼び寄せ、約56日間でその工事を終えたと記されている。

 

増毛の海岸は断崖絶壁。かつ、海と山が近い距離にある特殊な地形をしている。陸路を造るのは困難で、その証拠に現在開通している国道231号線もほとんどがトンネル。西から吹く季節風の影響で海が荒れることも多く、海路も決して期待できるものではなかったという。

北へ向かうためには山道開削が急務で、完成後は兵隊だけでなく、手紙や荷物を運ぶ逓送人(今でいう郵便配達員)、受験に向かう学生、旅人、隣町に嫁ぐ花嫁なども使う、生活道路へと用途を変えていった。

国道の開通と共に山道はその役割を終えたというが、90〜100歳の地元の高齢者は今でも鮮明に覚えていて、「あそこに神社があった」とか「道の草をきれいに刈ったんだ」とか、うれしそうに当時の思い出を語る。その話を聞いていた渡邉さんも「実際に造った人や歩いた人の話は、資料に書いてあることと比べて臨場感がまったく違う。93歳のおじいちゃんに『電線を置いてきたから見てこい』って言われて確かめに行ったこともあったけど、もう土に埋まっちゃっててわかんなかったねぇ」と、実に楽しそうに話すのだ。この道は異国の物語に登場するものではなく、自分たちが生きている今を少し遡ったところにあるもの。自分たちの祖先が実際に歩いた道だから、自然と情が湧くのだろう。

前述の93歳のおじいちゃんの仕事は、電信の鋼線を張ることだった。増毛山道に初めて電信が通ったのは明治22年(1889年)。当時はまだ電話ではなく、「トンツートンツー」の電信で、増毛のニシン漁の親方が小樽のニシンの相場を入手したり、逆に小樽側が増毛の漁獲量を確認するために使われていた。しかしこの電信柱は1年と持たず、毎年冬の初めには雪崩や強風で倒されて繋がらなくなってしまったという。山道には柱と電線、碍子が複数ヵ所で倒れたままになっていた。「高くしてみても、低くしてみてもだめだった。それだけここの冬は厳しかったんです」と解説してくれる織田さんの言葉をヒントに、参加者たちは各々にそのシーンを想像する。

太く長い柱を山の中まで持ってくるだけでも大変だったろうに、もっと重いものが運ばれていた事実も残されている。水準点に使う石の塊(標石)だ。明治40年頃、増毛山道には17点の一等水準点が設置された。そのうちのひとつがフルコーストレッキングで通過する浜益御殿という山の頂上にあり、北海道で最も高い水準点とされている。この日歩いた道の脇にも水準点があった。表面以外は土に埋まっているため全様は見えないが、実際の石の大きさは縦横各24センチ、高さ90センチで、重さは139キロにも及ぶという。増毛山道の会の推測によると、春先の雪解け前に馬にそりを付け、その上に石を乗せて運んだのではないかとのことだ。ーつづくー(取材・文/尾崎友美)

増毛山道トレッキング-1
■増毛山道トレッキング-2
増毛山道トレッキング-3

話の主は…

NPO法人 増毛山道の会

http://www.kosugi-sp.jp/sando/top.html

トレッキングツアー情報は上記HPの「行事予定掲示板」で更新されます。

お申し込みはメール(oldis21@kosugi-sp.jp)

またはFAX(0164-43-0400)で。

きょうの話は…

雑誌「northern style SLOW」vol.56 Summer 2018より

https://www.n-slow.com/books/books-9898

※「northern style スロウ」は、2004年に創刊した北海道発の季刊誌です。
大自然の恩恵を受けながら、丁寧に心豊かに暮らしている人々を、これまでにたくさん取材してきました。
できるだけ多くの方々に伝えたくて、少しずつですがWeb Magazineで紹介していきたいと思います。
毎週月曜日に1話ずつ。ぜひお楽しみください。
http://www.n-slow.com/concept

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